にわかポリネシアブーム?2


にわかポリネシアブーム2です。
あたご海難審判結審とか、本当に久々に『ちはや』を訪れたこととか、書いておくべきことは幾つか出てきておりますが、まずはポリネシアのお話から。
筆者の頭の中でポリネシアと縄文が結びついてしまってから久しいのですが、『ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源』のホームページを見るにつけ、いよいよその結びつきが深くなっています。
今は、地名編、古典編、国語編、雑楽編などがあるうちの、地名編はひとまずおいておいて(本当に多数の地名を解釈しているため、身近な地名でもないと追い切れないのです(^^;;)、古典編を読み漁っております。
これがまた興味深い内容で、日本書紀古事記に出てくる昔の神々や英雄(?)達の名前が、ポリネシア語で読み解くとその事績をあらわした名前になっているということで、これも驚き。
そもそも、上代日本の人名は、なにやら意味不明の長々しい言葉になっていることが多く、不思議な響きをもっています。曰く、ニニギの尊(天孫降臨で高千穂に降り立ったとされる神)は『アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギ』、妻となった姫は『コノハナサクヤヒメ』、大物主神の妻は『ヤマトトトビモモソヒメ』などです。
これらの名前が、ポリネシア語で読み解けるということ自体がかなりの驚きです。
そもそも、大和朝廷縄文人を征服した北方民族が打ち立てた朝廷であり、日本書紀古事記の記述は、北方民族の持ち込んだ神話体系だと筆者は勝手に思い込んでいたのですが、ここに出てくる人物名がポリネシア語で読み解けるとなると、かなり事情は違ってきそうです。
そうなると、これらの英雄に名前をつけたのは(贈り名を贈ったのは)ポリネシアの流れを汲む縄文の人たちだということになりそうで、日本書紀古事記に出てくる古代の神話の時代は、まだ縄文人の一派が主流派だったと思えてしまいます。
と、すると、天孫降臨などの事績は、縄文の人たちの間で起きたことであり、もともとの縄文人の国に、別の縄文人の一派が乗り込んだ事績を表していることになるのかも知れません。大和朝廷が北方系の朝廷だとするならば、先住民族の神話や古代史がどこかで朝廷の建国神話に紛れ込んだことになります。
果たしてそうだったのでしょうか?

それ以外に、航海日誌的に興味深いのは、言葉の解釈の随所に『アウトリガー(船の転覆を防ぐためにつけるフロート)』や帆柱が出てくること。
もし、古代人が人名や地名をアウトリガーカヌー(片舷からフロートを張り出した艇)にちなんでつけたとするならば、その時代(紀元元年〜300年ころ?)にはすでにアウトリガーがあったと考えなくてはなりません。
もちろん、比較的小型の船でポリネシアメラネシアから日本まで航海しようとするならば、アウトリガーかなにかが無くてはまともに航海できなかったでしょうが、このホームページの説が本当だとすると、言葉の面から傍証を得たことになります。
文字すらも無い古代においても、意図的にかなりの大航海が行われたように思われるこれらの事績は、なんだか、オーパーツ(本来その時代からは出土する筈のない高度な遺物)の世界をさ迷っているようでなかなか楽しいです。

[航海日誌中の関連URL]
海を越えた縄文人
にわかポリネシアブーム
[参考URL]
ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
縄文と古代文明を探求しよう!!