あたご海難審判


ようやく少し仕事が落ち着いてきました。
遅ればせにはなってしまいますが、今月 4 日と 11 日に以前の記事で書いたイージス艦『あたご』の海難審判があったようですので、メモ的に書いておきます。
復習しておきますと、この事故は、帰港しつつある自衛隊イージス艦『あたご』と、漁に出ようとしていた『清徳丸』が房総半島沖で衝突したもので、『あたご』が『清徳丸』の左舷側に当たる形となっていたことから、あたごの避航義務が一つの焦点になっていたものです。
当初、衝突 12 分前に『あたご』の見張り員から『清徳丸』の右舷灯が見えた(これは、両船がお互いに右舷側を見せてすれ違う位置関係で、このままいけば『清徳丸』左舷に『あたご』が衝突することはあり得ない)という証言があったものの、その後、見張りの引き継ぎがなされていなかったこと(継続監視していなかった)、自衛隊側の証言がちぐはぐなこと、さらに『清徳丸』に後続していた『金平丸』の GPS に、衝突進路に乗っていた『あたご』を避けるために右転し、避けきれないと感じて左転する航跡が残っていたこともあり、より先行していた『清徳丸』が『あたご』と互いに右舷側を見せてすれ違う進路だったことはほぼ考えられない状況だったことも明らかになりました。
これらの事実を受けて、当時防衛大臣だった石破氏が、遺族のもとに謝罪に訪れ、一度防衛省側が非を認めた形となっていたと記憶しています。

ですが、今回の海難審判の場では、『あたご』側の当事者はいずれも事実関係について争う姿勢を見せているようです。
焦点となっている主張は、<『清徳丸』は、そのまま行けば『あたご』の艦尾 820m のところを通る進路だった(この進路であれば、あたご側に避航義務はない)が、清徳丸が右転した>ということです。
前述のとおり、当初もごく初期に一時主張されていたものですが、いろいろな報道の出る中、可能性が低いとして消えた見方だと思っていました。
これを受けた第二回の審判では、後潟前航海長から「漁船が停泊していると誤認した」、誤認の原因については「うまく言えない」との言葉が出るなど、進路、速度、見張りの経緯について、依然として説明がちぐはぐな印象を受けます。停泊と誤認していたのに、「そのまま行けば艦尾 820m のところを通るはずだった」というような具体的な主張がなぜ行われるのか。
腑に落ちない主張ですし、残っている客観的証拠からすると、通りにくい主張にも思えます。なぜ今さらこの主張なのでしょうか。

『あたご』のレーダー記録があれば、このような主張の混乱なく、ある程度客観的に事実が明確化できると思うのですが、結局はあたごのレーダー記録が出てきていないこと、当事者の片方が不在であることもあり、客観的な事実が見えにくいままになってしまっています。
今後の同様の事態を避けるため、レーダー記録にどんな機密があるかはわかりませんが、事故時には情報公開を義務付けるべきではないかと思っています。

※この記事を書くにあたって、毎日、朝日両新聞の特集ページを見直してみましたが、事故直後の鮮度の高い情報へのリンクが外れていました。記事がまだリンクされている3月はちょうど 6ヵ月前なので、たぶん自動制御なのだと思うのですが、当時の記事がそのままたどれない(記事の関連リンクをたどっていくと、公開されてはいるようなのですが、特集ページからまとめて見ることができない)のは、残念なことです

[追記]
探してみると、12 日、17 日、25 日にそれぞれ第三回、四回、五回目の海難審判が開かれたようです。
第三回は舩渡前艦長側から、件の航跡図を示しての再主張、第四回は清徳丸の僚船『金平丸』の市原義次船長から、『清徳丸』の右転を否定する証言。第五回は横浜地方海難審判理事所から、『あたご』に避航義務があり、『あたご』側に過失があるとする旨の請求(通常の裁判で、検察側が求刑するようなもの)が行われました。
これはまだ結論ではありませんので、結審までもう少し時間がかかる模様です。
海の事故の一ケースとして、見守っていきたいとおもいます。


[参考URL]
イージス艦事故:「あたご」前艦長ら争う姿勢 海難審判
イージス艦事故:「あたご」当直士官ら一部落ち度を認める(第二回)
航跡図示し説明 あたご海難審で前艦長(第三回)
漁船の右転否定 イージス艦あたご海難審判(第四回)
あたご海難審判 元艦長らの過失指摘、勧告を請求(第五回)
毎日新聞:イージス艦衝突特集ページ
朝日新聞:イージス艦衝突特集ページ


[航海日誌中の参考情報]
事故・座礁・遭難
お粗末と言われても……